当方は以前ブログでも書いたように日本の核武装にはどちらかと言いうと否定的です。核抑止力としてまた、戦争の抑止力として核兵器を持つべきとの意見をよく見かけます。確かに、核を持てば抑止力にはなるでしょうが偶発戦争や事故の恐れを拭いきれません。
実際、アメリカで演習磁気テープを出し忘れて核戦争になりかけたり。誤って、核爆弾を投下してしまったり。沖縄で核弾頭付きのナイキを発射してみたり。ソ連では各警報システムのセンサー異常で核戦争になりかけたり。ロシア時代では核警報システムの誤報があったり最近ではインドのミサイルがパキスタンに誤って打ち込まれたりと知っているだけでもこれだけあります。
よって、偶発戦争や事故は避けられず。核弾頭の数が多いほど危険は高まるものと思われます。核を持ったほうが良いとしている人はこう言ったことが起こりうる「覚悟」を持っているのでしょうか。
核保有国が世界を支配している事実を目の当たりにしても、上記の事柄を無視できないものと思っています。
一方、我々は、非核保有国が核保有国に戦争で勝った例を少なからず知っています。ベトナム戦争や中越紛争、ソ連のアフガニスタン侵攻、米国のアフガニスタン紛争は国家を荒廃させていますが何れも核戦力なく核兵器保持国を排除しています。さらに、当ブログでも書きましたが福澤諭吉は「学問のすすめ」の中で“国がはずかしめられるときには、日本国中のみなが命を投げ出しても国の威厳を保とうとする。これが一国の自由独立ということなのだ。”と述べられているとおりです。核兵器を持たない選択肢にも当然、「覚悟」が必要になってきます。
どちらの覚悟が崇高であるかは当方が答えるまでもないでしょう。また、実現性はどうでしょう。これは、非核化、核武装化どちらも困難ですが核武装化のほうが幾分容易に思われます。しかし、覚悟を持って取り組むのならまだしも、易きに流れての核武装化などは許されるべきではないと思っています。
当方は、これらのことから、通常兵器で出来るだけ抵抗するか大量破壊兵器を持つとしても生物・化学兵器までではないかと考えています。生物・化学兵器であっても偶発戦争や事故は避けられないでしょうが核兵器のそれに比べれば被害は小さく済むものと思います。
最後に、広島・長崎に対する米国の非道さを訴えたいと思います。1925年には既に「窒息性ガス,毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」(毒ガス等使用禁止に関するジュネーブ議定書)により戦争での使用が禁止されていました。それを上回る兵器であれば人道上許されると言うのでしょうか。そんなことはないはずです。この核兵器は民間人であっても無差別に殺害する残虐兵器です。これを米国はさらに日本に何の警告もなく都市で使用したのです。ウクライナの人道が叫ばれるのであれば広島・長崎の人道はさらに叫ばれるべきです。この様な横暴は人類史上末代まで語られる非道な行為だと感じています。このことは、米国人も肝に銘じるべきだと思います。

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