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2018年9月

2018年9月16日 (日)

ETV特集「自由はこうして奪われた~治安維持法 10万人の記録~」を見て

 8月15日終戦の日近辺では大東亜戦争(太平洋戦争)関連のテレビ放映が増えてきます。その中で、気になったものについて感想を書きたいと思います。
 今回は第4弾として、ETV特集「自由はこうして奪われた~治安維持法 10万人の記録~」(NHK Eテレ)です。まずは、要約を書いて、当方所蔵の本による比較・補強と感想を述べたいと思います。
 大正時代末期に制定された治安維持法の地域別、期間別検挙者数を分析しています。
 治安維持法は、国体の変革や私有財産制度の否認を目的とした結社、主に共産党を対象としていましたが、その取り締まりが一般の市民にまで拡大したとしています。
 日本が戦争への向かっていく時代に検挙者は急増し、市民がどのように巻き込まれていったのか詳しい実態が明らかになったとしています。
 大正デモクラシーの中権利意識に目覚めた人の間で共産主義の思想が徐々に広がってきたため、また、普通選挙法の施行(1925(大正14)年)を間近にひかえ共産主義が勢力をのばすことを恐れていたとしています。
 日本国内での検挙者数は68,332人にのぼり、検挙者は前半の10年間に集中しています。また、治安維持法の施行(1925(大正14)年)から4年目に急激に増加しています。これは、三・一五事件で共産党関係者とされた1,600人あまりが検挙された事件によるところが大きいそうです。そのとき14歳の少女まで捕まって暴力を伴った取り調べを受けたそうです。
 治安維持法の運用としては、特別高等警察(特高)が国家に不満や批判を抱く人を監視し社会変革を未然に防ぐことでした。中でも共産主義者は重要な監視対象でした。事件が起こってしまったのでは特高警察の汚点になるため事件が起きる前に予防的に運動を押さえて行く方向だったそうです。
 三・一五事件以来検挙者は増え続け1933(昭和8)年には14,622人まで増加するのでした。それは、東京を中心としていたものが地方にまで増えていたためでした。また、1929年から1933年まで共産党員として検挙された人は全体の3.4%ほどだったそうです。これは、1928(昭和3)年に行われた法改正によるものだそうで「目的遂行のためにする行為」通称目的遂行罪が加えられ共産党の活動を手助けしていれば罰することが出来るというものでした。
 長野の教師の中には1日、取り調べを受けただけで問題ありとされて教師を追放された方もあったそうです。
 目的遂行罪が導入された背景には、三・一五事件で検挙した人のうち7割以上で共産党員と特定できず釈放されたことがあったそうです。当初、国会では通過せず緊急勅令の形で施行されたものがその後国会で承認されたのでした。1933年に三・一五事件の裁判で共産党員を弁護をした弁護士が目的遂行罪で問われて有罪になりました。
 特高は、目的遂行罪を至れり尽くせりのこの重要法令と評価していたそうです。
 1933(昭和8)年に検挙者のピークとなったその翌年には急激に減少しています。それは、転向政策により治安維持法に違反した人のうち8割を転向させたため、検挙者が減ったというのです。検挙しても再び運動に戻ってしまうのでは意味がないので、力によって押さえつけるだけでなく生き方や考え方をコントロールするのが転向政策だそうです。
 あと、治安維持法が植民地政策に活用された内容がありますがこれは割愛します。
 1935(昭和10)年に共産党は事実上壊滅し治安維持法は当初の役割を終えたかに見えたのですが、翌年以降も検挙が続いていたのです。1937(昭和12)年に支那事変(日中戦争)に突入し治安維持法に新たな役割が求められたのです。司法当局は目的遂行罪の解釈運用に限界点を見いだして1941(昭和16)年に治安維持法は再び改正され目的遂行罪の適用範囲は大幅に広がりました。これにより自白に伴う尋問調書の証拠採用があり、自白を強要された人も出てくるのでした。
 GHQが1945(昭和20)年10月に治安維持法の廃止を命じるまで特高の活動は続くのでした。収監されていた人はこのとき一斉に解放されるのでした。特高の多くは人権を侵害したことを問われ罷免されるのでした。検挙者は植民地も含めると101,654人に及びました。
 治安維持法が制定される時には、曖昧な法案に対して与野党で疑問の声が出たそうです。
 さて、当方の感想ですが、曖昧な法案を作りそれを盾にし、さらには民衆を脅かして権益を広げて行くのは官僚制のよくあるパターンであると思うのです。結局、司法当局と特高の官僚制から生まれ落ちたものと思われるのです。検挙する末端にいた特高の職員はそれに絡め取られて、手柄を立てたい一心で無辜(むこ)の人たちすらも手にかけることになったのでしょう。
 次に、目的遂行罪による弁護士の有罪判決ですが、これにより、治安維持法で捕まった共産党員を弁護したことで弁護士が有罪となるなどはちょっとやり過ぎです。これでは正しい法律の執行がかないません。また、ちょっと前にNHKで見た番組では現在のシナ(中国)で人権派弁護士が活動化を弁護したことで捕まると言う似たような事例を見ました。日本が中国共産党に屈すればこのような現実が待っているもの思われるのでした。
 その次に、転向政策ですが、これがはたして良かったのかと思えるの事象は、当ブログでも“「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」江崎 道朗著を読んで”で紹介した本のp248から“偽装転向者の巣窟と化した「昭和研究会」”の中で示されています。1933(昭和8)年の改訂で彼等共産主義者が、国体変革(天皇制打倒)を抛棄(ほうき)さえすれば転向した共産主義者を釈放したそうです。これで、偽装転向者や宣言しただけで考えが変わっていない者が多く出たそうです。また転向者は司法省あるいは警視庁の特高部でも熱心に就職の斡旋をし、官庁関係では嘱託名義で、調査部、研究室に、民間では調査研究団体に多数が就職したそうです。転向者の行き先の一つとして近衛総理に近いシンクタンク「昭和研究会」があったそうです。こう言ったことから当方は転向者がスパイ化することになったことに愕然とするのでした。一方で、特高が厳しい取り締まりをするだけの組織ではなかったことが分かります。
 結局、治安維持法を肥大化させると言う官僚特有の性質が問題であったものと当方は思います。現在でも、無用に恐怖心をあおって権益を拡大させようとする官公庁のやり方はあるわけでそう言ったことには十分注意したいところです。逆に言えば治安維持法をことさらに恐怖の対象とすることも誰かの利益になることかと思います。

 

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2018年9月 2日 (日)

NHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦い」を見て

 8月15日終戦の日近辺では大東亜戦争(太平洋戦争)関連のテレビ放映が増えてきます。その中で、気になったものについて感想を書きたいと思います。
 今回は第3弾として、NHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦い」です。まずは、要約を書いて、当方所蔵の本による比較・補強と感想を述べたいと思います。
 ノモンハン事件は1939年にモンゴルと満州国の間で勃発した国境紛争で日本軍とソ連軍が戦ったものです。モンゴルの東側のハルハ河を国境とする満州国(日本)とハルハ河より東20kmを国境とするソ連・モンゴルの間で起きたものです。
 装備は日本軍は大砲、戦車は乏しく歩兵中心で戦ったのに比べ、ソ連軍は戦車、航空機など近代化されたものでした。戦いは4ヶ月続き国境はソ連・モンゴルの主張した線となりました。
 日本軍は、20,000人の死傷者を出し主力部隊の8割を失う壊滅状態となりました。
 日本陸軍上層部が語った150時間の音声テープが米国(米国の軍事史研究家が記録したものだそうです)で見つかりこれを元に組織の有り様を検証したものです。
 陸軍上層部は曖昧な対応で現地軍(関東軍)の独走を止めることが出来ませんでした。 責任は現場の部隊長に押しつけられ自決(自殺)に追い込まれていったのです。
 音声記録にはノモンハンを主導したのは、関東軍参謀の辻政信少佐の名前が度々出てきています。本来意思決定を出来る立場ではないが、辻少佐の主張が通ってしまい戦線が拡大して行くのでした。
 中央にあった昭和天皇と参謀本部は支那事変(日中戦争)で多くの人員を割いていたのでソ連とことを構える余裕はなく戦線の拡大は望んでいなかったそうです。
 しかし、国境紛争でソ連の反撃を受けて関東軍は越境爆撃を参謀本部を通じた天皇の裁可なしに行ったのです。これには、辻少佐が強硬に発言していたそうです。関東軍の参謀長磯谷中将は事前協議をする必要があるとしていたが、関東軍司令官植田大将は越境爆撃を承認したのでした。
 辻少佐は成績優秀で上司にも逆らえるような発言力があったため高く評価されていたそうです。また、関東軍司令官植田大将は以前にも辻少佐と上司部下の関係だったそうです。こう言った、一部の参謀の意見が強い影響力を持っていたそうです。
 昭和天皇は、天皇の統帥権を侵した判断の責任を関東軍司令官植田大将にとるよう暗に参謀本部に求めたけれどもに参謀本部では辻少佐の関東軍からの移動でことを納めようとしたがこれも人間関係で上手くゆかず、うやむやにされたそうです。
 越境爆撃の後、壮絶な地上戦へエスカレートし最大で日本軍25,000人、ソ連・モンゴル軍57,000人が動員された事実上の戦争としています。塹壕戦となり両軍の塹壕の規模は300平方キロメートル、総延長は100kmにもおよぶ長大なものとなっていたそうです。ソ連軍は掩体壕に密かに物資を貯蔵していたそうで1,500を数えるほどだそうです。また、ソ連軍の大輸送作戦の様子が映像としても発見されたそうです。最大9,000台に及んだという記録もあるそうです。また、集められた戦車や装甲車は800両近くノモンハンに物資を運ぶのに650kmの距離を走破せねばならなかったそうです。日本軍は自らの常識を越えるこうした作戦を不可能と決めつけていたそうです。また、ソ連の駐在武官が関東軍や参謀本部にも警告を発したそうです。
 ここで、当時のソ連のスターリンがドイツと日本の同時方向から攻められることを恐れていたがドイツと秘密協定を結んでノモンハンに戦力を集中させていたとのことで国際情勢も見誤っていたそうです。
 辻少佐は決着を付けるため地上戦の作戦計画を立てたそうですが歩兵中心であったそうです。
 地上戦の陣容は映像でわかりやすく説明していたので機会があればぜひ見てみてください。
 結局、ソ連側の死傷者は25,000人で日本側の死傷者は20,000人で日本側は主力部隊の8割を失う壊滅状態となり、国境と主張していたハルハ川から後退し敗北したのでした。
 責任は現場に押しつけられ、800人いた兵員が1/3まで減り補給も受けられなかったため独自の判断で現場を撤退した支隊長は、辻少佐や現地軍のトップである師団長から糾弾を受け軍法会議にかけることなく自決(自殺)に追いやられるのでした。他にも捕虜となった部隊長が自決に追いやられるなどしたそうです。また、捕虜に対して敵前逃亡が無いかを捜索し厳重に懲罰するよう求めた通知が陸軍大臣から出ていたそうです。
 一方、辻少佐は2年間閑職におかれたものの中央の参謀本部に復帰したそうです。陸軍の他の幹部は責任のなすりあいに終始するのでした。
 2年後の米国等連合国との戦争に突入していくのでした。敵の能力を軽視し十分な見通しの無いまま始めた戦争はすぐに行き詰まり1年ほどで劣勢が決定的となりましたが、その現実を直視せず無謀な作戦が繰り返され戦死者は増えて行くのでした。
 ノモンハン事件での捕虜への厳しい方針は戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」と明文化され、やがて、国民にも軍人と同じ覚悟が求められて行くのでした。
 さて、当方所蔵の本による比較・補強と感想です。
 まずは、“日本軍の敗因「勝てない軍隊」の組織論”藤井非三四著のp114からノモンハンへの補給線について詳細が書かれています。
 自動貨車があっても多くの場合、補給品はまさに一馬力の馬匹によって前送する。これには輜重車(しちょうしゃ)を牽引する輓馬(ばんば)と、鞍に振り分けで直接積載する駄馬(だば)の二つの方法があった。馬車道があれば輓馬、さらに道が狭ければ駄馬という使い分けになる。一頭による輓馬なら二二五キロ積載で一日行程三二キロ、二頭ならば四五〇キロ積載で一日行程四〇キロ、駄馬ならば九四キロ積載で一日行程三二キロ、これがそれぞれの基準とされていた。・・・中略・・・

 

 そして、つい忘れがちなのが飼馬(かいば)と水だ。・・・中略・・・
 おおむね馬一頭に兵員一人が随伴するが、それが各人、毎日一.五キロの食料、飲料と調理で水を四~六リットル消費する。あれこれ計算してみると、行程が伸びれば伸びるほど、物資を前方に推進しているのか、それとも輸送そのものに必要なものを運んでいるのか分からなくなる。そのようなことで、馬匹主体の補給では、港湾や鉄道の末端から七日行程まで、距離にすると二五〇キロが補給幹線を維持できる限界になる。

 

 ■完全自動車化を達成した米軍
 こういうことだったから、昭和十四(一九三九)年五月からのノモンハン事件で、関東軍は必勝の信念を固めたのだ。というのは、日本側の鉄道末端は濱州線のハイラルと白阿線(白城子~アルシャン)のアルシャンで、ノモンハンまでそれぞれ二〇〇キロと七〇キロだ。一方、ソ連側の鉄道末端は、シベリア鉄道の支線、旧東清鉄道のボルジャで、そこからノモンハンまで、道路が大きく迂回しているため八〇〇キロに達する。従ってソ連軍は、補給能力からして師団以上の部隊は投入できないから、日本側は一個師団でも勝利すると想定したわけだ。
 ところが、ソ連軍は650キロもの自動車道を急増し、カーゴ・トラック三〇〇〇両、タンクローリー一〇〇〇両を投入して補給幹線を確立させ、歩兵師団三個、戦車旅団二個装甲自動車旅団三個を展開させた。・・・以下略
と、言うわけでNHKスペシャルで指摘していたことと同様に敵の補給線を見誤っていたことになります。このことが、大敗を喫する原因とされています。まさに、石油の時代による敗北といえるのではないかと思います。また、ソ連側に裏をかかれたわけです。それでも、NHKスペシャルの中では、ソ連の駐在武官が警告を発していたことを示したように、そこを斟酌する必要があったわけです。
 それとあわせて、日本軍の武器が旧式で会ったことをNHKスペシャルでは言っています。“昭和陸海軍の失敗”半藤一利、秦 郁彦、平間洋一、保阪正康、黒野 耐、戸高一成、戸部良一、福田和也対談集(文春新書)p13
 保阪 宇垣にとって不幸だったのは、彼の狙いは、師団削減によって余った予算で軍備充実をと意図したのですが、不況と震災などの影響で資金投入が遅れてしまい、結局のところ軍の近代化はほとんど進まなかった。これは誤算だったでしょう。
との記載があり、大正14年に軍縮を行い軍の近代化を図ろうとした事実はあったようですが無為に古い兵器を使っていたわけではないことが分かるかと思います。また、大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)における米国等連合国との戦いの初戦では、その旧式兵器で勝ち戦をしていますし、ノモンハンの戦い自体でも負けたとは言え死傷者数ではソ連・モンゴル軍よりも少ない数となっているのですから、問題はあるものの、NHKスペシャルで主張するほど大きくないかもしれません。
 次に辻少佐の人間像と組織の問題点について“昭和陸海軍の失敗”(文春新書)p90からです。又引きとなる部分もあります。
 保阪 このノモンハンの大敗により、関東軍司令官の植田謙吉(10期)が予備役に回されたのをはじめとして、多くの人間は責任をとらされるのですが、辻、服部だけは一時的に閑職にまわされるものの、すぐに復活していますね。
・・・中略・・・
 福田 辻に批判的な軍人はいなかったのでしょうか。
 半藤 ノモンハンのときの第六軍司令官の荻洲立兵(おぎすりゅうへい)(17期)は、辻のように軍規を乱す参謀はすぐクビにしたほうがいいと言ったそうです。また当時の陸軍省人事局長、野田謙吾(24期)も、「こういう人間を残しておくと将来、大きな過誤を犯すから直ちに予備役にしたほうがいい」と主張した。ところが「辻を残せ」という。“天の声”があったそうです。天の声とは誰か、かなり取材したのですがはっきり分からない。おそらく東條ではないか思うのですが。
・・・中略・・・
 半藤 ともかく「天の声」で生き残った辻は開戦時のマレー作戦に参加して、今度はシンガポールで華僑虐殺事件を起こすわけです。
・・・中略・・・
 黒野 マレー作戦の司令官だった山下奉文も辻を酷評していますよ。「我意強く、小才に長じ、いわゆるこすき男にして、国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男なり」と『山下奉文日記』にあります。あの評価が辻のすべてを表しているのではないでしょうか。
・・・中略・・・
 保阪 先ほど紹介した杉森の本には、他にも興味深いエピソードが紹介されています。 辻は新しい部署へ配属されると、まず経理部へ出かけて、参謀長以下幕僚たちの自動車の使用伝票と料亭の支払伝票を調べ上げるのだそうです。これで弱点を握られた上官は、辻に頭が上がらなくなり、彼の横暴を黙認する結果となったという。何だかどこの組織にも、一人や二人の辻がいそうですね(笑)。
と、辻少佐はこの対談本では酷評されていますし、その人事に関しても変ではないかと言われています。
 また、1/3しか兵員が残らず補給もなかったことから撤退したことを糾弾し支隊長を自決に追い込むなど現場に押しつけるとは醜いです。財務省の理財局でも有ったような・・・。東芝のチャレンジも似たように上から下への単なる押しつけの様な気がします。結局、今の組織でもあるようですから、病根は深いものと思います。官僚化した組織に見られがちな問題なのでしょうか?それとも儒教的精神構造が生むものなのでしょうか?何とか原因を突き止め、処方箋を作らなければバッシングのみでは解決がつかないように思われます。
 あと、NHKスペシャルでは関東軍司令官植田大将が予備役に回されるなど一定の責任をとっていることは説明されませんでした。
 最後に、NHKスペシャルでは2年後の米国等連合国との戦争は無謀との結論ですが、当ブログは“「日米開戦 陸軍の勝算」林 千勝著(祥伝社新書)を読んで ”で、日本に大東亜戦争への勝算は有ったことを紹介しています。



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