日本国憲法について考える。天皇は元首であるべきか。
さて、日本国憲法改正問題についていくらか思うところがあり書いてみました。
まずは、憲法第一条にも出てきます天皇の位置づけです。
憲法は日本の国柄を示すものであり、天皇をの位置づけを元首と明文化しておくことは対外的にも歴史的にも文化的にも重要と考えます。
また、どこの国でも、拠って立つところが必要です。天皇の存在は神話の世界から続く世界最古の君主です。「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」竹田恒康著で日本に次いで長い歴史を持つ国はデンマークで千数十年が経過していることを述べています。さらに、天皇が「国民」のことを「おおみたから」と呼ぶとしており、そのことは外国の君主制と異なります。加えて、日本神話に仁徳天皇が民家から煙が上がっていないのを見てしばらく徴税を止めたと言う逸話を示しています。つまり、日本の天皇と国民の間では支配と被支配と言う対極的な見方は当てはまらないように感じます。
さて、外国の君主制に目を転じてみましょう。先ほど出したデンマークや英国を始め君主制の国は世界でもまだまだあります。また、近年君主制に戻った国もあります。スペインは共和制をとった後王政に戻っています。カンボジア王国も一度クメール共和国になった後、カンボジア王国になっています。両国とも共和国と言いながら独裁国家から立憲君主制になっているのですが、注目すべきは特段世界の流れとは関係なく国柄として必要ならば君主制をとっていることです。
それでは、君主制では無い国の政治に対する神聖性を見てみましょう「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝正著でも示されていますが、アメリカ大統領の就任式では最高裁判所長官が持ってきた聖書に手を置き宣誓します。ロシア大統領の場合はロシア正教の大主教が出てきて就任儀式を執り行います。最高権力を持つものは無理無法が可能なため聖なるものによる拘束力を必要としているのです。しからば日本はどうでしょうか、日本には祭祀王である天皇がいます。天皇が総理大臣を任命することでその役割が果たされるのです。
そして、天皇が日本から無くなった場合を考えてみたいと思います。当然、歴史観、世界観を大きく失うことになります。中国にその錯綜ぶりを見ることが出来ます。当方のWebページ“「イントロンの暴走」のⅦさいきん 思ったこと(日記?)上海万博の中国館について思うところ”でも述べていますが、封建制を打破するために生まれたはずの中国共産党は上海万博での中国館を皇帝の冠を模した外観にしてしまっているのです。結局のところ中国共産党であっても上海万博という重要な場面でアイデンティティーを皇帝に求めてしまうのですから栄光ある歴史がどれほど重要かわかろうと言うものです。
このように、歴史、世界観を持った君主を象徴(シンボル)だけでなく元首として位置づけることこそ対外的にも意義深いのではないかと思うのです。
最後に、日本の民主主義は五箇条の御誓文から明治憲法を通じて順次拡大して日本に定着しているので天皇を元首としたぐらいではいささかも揺らがないでしょう。
「日本国憲法について考える。」と題して別の事柄もまたぼちぼち述べてゆきたいです。それはさておき、参院選の行方はどうなるんでしょうね。憲法九条は出来るだけ早く改正してもらわないと中国や北朝鮮と相対してゆくにはいささか不安です。何度もこのブログで言っていますが憲法九条を守ろうとしている人には習近平や金正恩の前でも憲法九条を斡旋してほしいものです。
まずは、憲法第一条にも出てきます天皇の位置づけです。
憲法は日本の国柄を示すものであり、天皇をの位置づけを元首と明文化しておくことは対外的にも歴史的にも文化的にも重要と考えます。
また、どこの国でも、拠って立つところが必要です。天皇の存在は神話の世界から続く世界最古の君主です。「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」竹田恒康著で日本に次いで長い歴史を持つ国はデンマークで千数十年が経過していることを述べています。さらに、天皇が「国民」のことを「おおみたから」と呼ぶとしており、そのことは外国の君主制と異なります。加えて、日本神話に仁徳天皇が民家から煙が上がっていないのを見てしばらく徴税を止めたと言う逸話を示しています。つまり、日本の天皇と国民の間では支配と被支配と言う対極的な見方は当てはまらないように感じます。
さて、外国の君主制に目を転じてみましょう。先ほど出したデンマークや英国を始め君主制の国は世界でもまだまだあります。また、近年君主制に戻った国もあります。スペインは共和制をとった後王政に戻っています。カンボジア王国も一度クメール共和国になった後、カンボジア王国になっています。両国とも共和国と言いながら独裁国家から立憲君主制になっているのですが、注目すべきは特段世界の流れとは関係なく国柄として必要ならば君主制をとっていることです。
それでは、君主制では無い国の政治に対する神聖性を見てみましょう「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝正著でも示されていますが、アメリカ大統領の就任式では最高裁判所長官が持ってきた聖書に手を置き宣誓します。ロシア大統領の場合はロシア正教の大主教が出てきて就任儀式を執り行います。最高権力を持つものは無理無法が可能なため聖なるものによる拘束力を必要としているのです。しからば日本はどうでしょうか、日本には祭祀王である天皇がいます。天皇が総理大臣を任命することでその役割が果たされるのです。
そして、天皇が日本から無くなった場合を考えてみたいと思います。当然、歴史観、世界観を大きく失うことになります。中国にその錯綜ぶりを見ることが出来ます。当方のWebページ“「イントロンの暴走」のⅦさいきん 思ったこと(日記?)上海万博の中国館について思うところ”でも述べていますが、封建制を打破するために生まれたはずの中国共産党は上海万博での中国館を皇帝の冠を模した外観にしてしまっているのです。結局のところ中国共産党であっても上海万博という重要な場面でアイデンティティーを皇帝に求めてしまうのですから栄光ある歴史がどれほど重要かわかろうと言うものです。
このように、歴史、世界観を持った君主を象徴(シンボル)だけでなく元首として位置づけることこそ対外的にも意義深いのではないかと思うのです。
最後に、日本の民主主義は五箇条の御誓文から明治憲法を通じて順次拡大して日本に定着しているので天皇を元首としたぐらいではいささかも揺らがないでしょう。
「日本国憲法について考える。」と題して別の事柄もまたぼちぼち述べてゆきたいです。それはさておき、参院選の行方はどうなるんでしょうね。憲法九条は出来るだけ早く改正してもらわないと中国や北朝鮮と相対してゆくにはいささか不安です。何度もこのブログで言っていますが憲法九条を守ろうとしている人には習近平や金正恩の前でも憲法九条を斡旋してほしいものです。


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