「成長なき時代のナショナリズム」萱野 稔人著(角川新書)を読んで
ブログで前回書いたとおり、ここではこの本の感想ではなく今後の米国とのつきあい方を考えつつ書いてゆきたいのです。
私が、前回読んだ「大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか」で知った新事実の影響は大きいものです。その内容は、ルーズベルト大統領が日本を第二次世界大戦に引きずり込んだというものでした。はたして、今後の中国関係に対峙しなくてならない中で、この様な謀略を米国に対してどう表現するべきかと言うことです。日本が、大東亜戦争に対する日本の正当性を主張をすることはとりもなおさず米国との対立を生む可能性があるからです。
さて、本書では排外主義的なナショナリズムが起きるときに経済的な「パイの縮小」という認識がありその例として慰安婦問題や靖国参拝問題をp35にあげています、
慰安婦問題においても同じである。
まずは、これまでの歴史的経緯に鑑みて韓国政府のやっていることはおかしいのではないか、という問題意識が強固に存在しているという事実を認めなくてはならない。そのうえで、「いくら日本ばかりが批判されることをおかしいと思っても、『強制連行はなかった』と主張すればたちまち国際世論からの反発を招き、日本の立場をよけいに悪くしてしまう」という点を批判すべきなのだ。「気持ちはわかるが、あなたたちのやっていることは日本の立場を悪くするだけだ」という姿勢である。
さらにこの問題においては、韓国政府のやっていることが、日韓請求権協定や河野談話、アジア女性基金など、これまでの経緯からいっていかにおかしなことなのかをきちんと主張できるような政治的表現や外交戦略をつくりだしていくことも必要である。
・・・中略・・・
ナショナリズムの問題は、それが激化してしまうと国益そのものも裏切ってしまいかねないという点にある。ナショナリズムの思想や行動は「国民のため、国のため」という意識から生まれるが、それが激化してしまうと「国民のため、国のため」にならないことを引き起こしてしまうことがあるのだ。
・・・中略・・・
たとえば二〇一三年末になされた安倍首相の靖国参拝は、中国や韓国からだけでなくアメリカやロシア、EUからも批判を浴びた。日本は右傾化していて危険だという中国や韓国の主張に格好の口実を与えてしまったわけだが、それでもなお内政干渉をはねのけて靖国参拝をしたことを評価する声が国内では広がった。
国益よりもみずからの心情を優先させてしまうようになるこうした傾向こそ、ナショナリズムのもっとも危ない点であり、その傾向をどうやって国益を冷静に見極められる合理性に引き戻すのかを考えなくてはならないのである。
と、何とも欧米や中韓こそが世界であると言いたげです。まあ実際に国力の問題まで考えればその主張はもっともなのかもしれないのですが。
更に、p44では慰安婦問題を交通違反者になぞらえて、
しばしばスピード違反で捕まったドライバーが「スピード違反をしている人間はほかにもいっぱいいるのに、なんで俺だけが捕まるのか」と警察に抗議をすることがある。それをみると、警察官も、そして私たちも「こいつ反省してないな」と思うだけだろう。国外ではそれと同じまなざしが、慰安婦問題をめぐって「他の国だって同じようなことをしていた」「日本だけが非難されるのはおかしい」と主張する日本にむけられているのである。
不当だ、と思うかもしれない。
しかし、だからといって、それに対抗して「日本だけが非難されるのはおかしい」とさらに主張すれば、それだけよけいに「日本は反省していない」と思われてしまう。要するに、「日本だけが非難されるのはおかしい」と主張すればするほど「日本だけが非難される」という状況をうみだしてしまうのだ。
としています。これには3つばかり錯覚が含まれています。まず、「警察官」は誰か、次に「私たちも思う」のか、3つめは「日本だけが」なのか、と言うところです。一つ目、警察官は当然連合国です。戦勝国である連合国は自分たちに非のあることを認めたくないのです。次に、「私たちも」としていますが、当方は捕まった相手に「運が悪い、捕まってかわいそうに」と同情します。三つ目の「日本だけが非難される」としていますが、これも非難する側は欧米、中韓に限定されるように思えます。それでもなお大筋は著者の言う通りに進んでいるように見えます。
さらに本書のp45では、
そもそも国際的な外交の場とは、利害を異にするアクターたちが少しでも自分に有利になるようさまざまな戦略や策略をもちいる空間である。そんなところで自国が不利になっている状況を他国のせいにしたってしかたがない。ナイーブに自己主張すればそれが聞き入れられると考えること自体、外交の場面では自滅行為となりうるのである。
と、しています。結局、敗戦国である日本は、欧米や中韓から弁護する権利を取りあげられたままであると感じてしまうのです。この本の文脈から考えられるのは欧米から孤立したくないのであれば欧米に従った方が得策だと言うことです。
さて、少し話を巻き戻してp29
しかし、一九九〇年代になり、韓国の元慰安婦たちが日本政府に対して国家賠償請求の裁判を起こすようになると、韓国政府は、この問題は新しい問題であり、そこでの個人の請求権は日韓請求権協定の対象にはふくまれないと主張しはじめた。
この韓国政府の主張は法的一貫性を欠いていて、国際法の常識からは決して認められるものではない。また、慰安婦問題が「新しい問題」だというのもおかしな話である。慰安婦の存在は韓国社会でも日本社会でも戦後ずっと知られており、それを放置してきたのは韓国政府と韓国社会の不作為でしかないからだ。
そして、前回読んだ「大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか」のp202を靖国神社問題の主要部分であるA級戦犯が過去には問題となっていなかったことについて引用してみます。
今日では「A級戦犯」は恥ずかしい烙印となっている。しかし、独立を回復した直後では、そのようなことはなかった。
A級戦犯として実刑判決を受けた重光葵が、鳩山一郎内閣の外相として、同じように実刑判決を受けた賀屋興宣が、池田内閣の法務大臣として、入閣している。
岸信介首相は、A級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨刑務所に収容された。
・・・中略・・・
日本が昭和三十一(一九五六)年に、重光葵外相のもとで、国連加盟を果たした時に、重光外相が国連総会に出席したが、満場の拍手によって、迎えられた。A級戦犯であったことは、まったく問題にされなかった。
慰安婦問題や靖国神社参拝問題は現代に作られた問題と言っても過言ではないでしょう。これらは中韓によって喧伝された策略です。
それに米国が呼応したのは、安倍首相が2013年12月26日に安倍首相が靖国神社に参拝した時に懸念をしめしたことです。これは、東京裁判で作った歴史観を再強化していると言えるものです。その背景として、米国が大東亜戦争の日本の正当性を示す歴史観に寛容ではいられなくなったことがあると思うのです。つまり、イラク戦争での正当性の失敗から、日本が大東亜戦争で戦った理由の正当性に触れることで失点を出すことすら嫌悪しているのでしょう。
そして、また本書に戻り著者の主張として国益を述べているところとしてp51に、
まずは、政治家が歴史問題において日本を免罪すると受けとられるような言動、もしくは日本の事例を相対化すると受けとられるような言動は一切しないようにすること。これは最低限守られるべき方針だ。
と、しています。結局、これは日本が大東亜戦争で行った自存自衛の戦いとアジア解放の戦いをしてきたことに口をつぐめと言っていることに他なりません。政治家を除いて日本国内で議論している間は問題ないと言うことになるのでしょうか。しかし、当然国内でこれらの議論が起これば民主主義国家ですから政治家や政治に影響することは必至です。これに欧米や中韓に抗弁しないのはまさに、現代版の臥薪嘗胆です。しかも、この構造は、日本が軍事的な関係を米国に依存している限り続くことになります。当方は、日本が核兵器を保有するまで壊れないことを意味するのでは無いかと思うくらいです。結局、永久的に続く臥薪嘗胆として我慢するしかなさそうです。どちらをとっても精神衛生上悪いような気がします。核抑止の発想後の世界は陰鬱としたものにならざるおえないようです。
さて、本書は慰安婦問題や靖国神社参拝問題だけを取りあげているわけではなく、日本社会のパイが拡大しないことから発生する問題をナショナリズムの問題、経済の問題、社会福祉の問題等から見ており興味深いものがあるのでぜひ手に取ってみては思います。

<当ブログ参考>
「大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか」加瀬 英明著(ベスト新書)を読んで
「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」 中西輝政 著 (PHP新書)を読んで
「超マクロ展望世界経済の真実」水野和夫 萱野稔人 共著(集英社新書)を読んで
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