さて本ブログで前回の“「<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊」副題「日米兵士が見た太平洋戦争」河野仁 著(講談社選書メチエ)を読んで”の中で日本軍は米軍に比べ官僚化=人工化=脳化が進みすぎたことが攻撃偏重を生み誤った判断を繰り返したのでは無いかとの考えを示し、それが牧畜民族と稲作農耕民族の違いによるところから来ているとの旨を書いたところですが、それをもう少し補足して説明しようと思いました。
なぜ、稲作農耕民族だと官僚化しやすいのかとの考えですが、農地の集団的な利用に適した組織をそのまま軍隊に置き換えるからであるとの考えが普通には出てくるのではないかと思うのです。それもあるのでしょうが、今一歩、違った見方を試みたいと思います。 それは、稲作農耕民族が持ってる食料の成分です。稲作農耕民族は当然ですが米を主食としており、主にはここから得るのはエネルギー源である炭水化物と考えがちですが、体を作るタンパク質も結構な量を含んでいます。一方、タンパク質を構成しているアミノ酸20種類のうちヒトが体内で作ることが出来ない必須アミノ酸が8種類、幼児で10種類あります。そのうち、米では幾分リジン不足しておりこれを補うために大豆を食べるとよいことが知られています。「調理とおいしさの科学」島田淳子、今井悦子 共著(放送大学教材)1998年p38、社会実情データ図録、タニタの健康コラム。しかし、小麦では畜肉を食べなければリジン不足になるため仏教の様な菜食主義が成立しなかったことをテレビで見た記憶があります。たぶん、放送大学だと思いますが。
ここで、脳化社会との結合点を考えてみたいと思います。宗教が神の存在を考えるとともに生死観を考えるものだとすれば、自ずと動物を生きているものと認識して人間との関連性を想起するものと思います。つまり、むやみな殺生をするものでは無いとの。それが可能となったのが東アジアの米と豆の文化圏です。可能になれば宗教による菜食主義というシンボル化が実行されるわけです。人間は雑食動物だというのに。そこで、日本人は純化した稲作農耕文化を持つにいたり動物を殺すことを避ける、つまりは、自然らしいものを避ける様になったのではないかと思うのです。
純化した脳化社会を持つとともに官僚化が進みすぎる社会風土も併せて持ったのではと言うのが私の考えです。
兵站(ロジスティック)を無視したり、人命軽視であったりこういったものは脳化社会の行き過ぎが生み出したのではないかと思うのです。人間が生き物であることを無視して武士は食わねど高楊枝をそのまま作戦にしてみたり、死を恐れないようスローガン(軍人勅諭や戦陣訓)で精強化し得たりと言ったことです。
動物を殺さないことが、なぜ人命軽視につながったのはかは一見すると相反するようであるので、再度、説明すると、米と大豆の文化圏→肉を得るための家畜の屠殺や狩猟を行わなくなる→自然からの乖離→人工化→人間の生死観のシンボル化(人工化の深化)→極端な人命軽視との見方です。チョット風が吹けば桶屋が儲かる的な見方なので納得が得られないでしょうか。 それでは、養老孟司氏の本に戻ってみましょう。「まともな人」養老孟司 著(中公新書)p89、
力について、われわれがなにほどのことを知っているか。それを私はいちばん疑う。アメリカ人はほとんど暴力の中で育つ。それは言いすぎだという人もあろう。しかしアメリカの優れた小説を読めば、あの社会がいかに暴力をよく知り、人間をその面から理解しているかがわかる。アメリカでは二十歳未満の若者が一年間にいったい何人、銃砲で死んでいると思うのか。その銃砲をいまだに規制できない社会、そのどこが「文明国」か。平時でもそれだけ若者が銃で死ぬ。それなら戦争くらい、あの国では当然ではないか。
と、書かれており我々の戦ったアメリカは文明国ではなく従って動物であるヒトのことが良くわかっていて戦争に強かったとの解釈は成り立たないでしょうか。ここで養老氏の言いたい趣旨は私の言いたいこととは違っているのでしょうが。また、河野仁氏の言っていた「ヒューマニズム」ともちょっと違うのかもしれません。
当然、この考え方だけで日本軍や日本組織で起きる事象の全てにおいて説明が済むわけではないでしょう。たとえば、機能主義と共同体との関係もあるでしょう。「<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊」の中でも米兵でも日本兵でも戦闘意欲ははイデオロギーではなく任務遂行や兵士同士の連帯感から生じることがp131からの「3 戦闘意欲」で示されています。別の考え方については、またの機会にしたいと思います。
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